お接待

管理者 相原あや子

 
  先日、愛媛県東予市にお住まいの方から冊子の入った封書をいただきました。それは、今年3月26日にルンビニーに立ち寄ってくださったお遍路さんからのものでした。この方は昭和12年生まれの男性で、お一人で八十八ヶ寺を歩かれている途中、「お遍路さんへ おせったいをさせていただきます。門を開けてご自由にお入りください。」とルンビニーの表に掲げている看板が目に留まり、訪ねてくださったのです。そして4月23日無事八十八ヶ寺の全工程を終了されたそうです。冊子の前書きに「17回の車での巡拝をして、18回目で初めて念願の歩き遍路を試みることを決意した。この回顧文は自分の記帳、記憶を元に印象深い出会いや、苦汁、接待の授受のよろこび感動等、思うままに筆にしたものである。」と記しておられます。
 まずは冊子に同封されていたお手紙を紹介させていただきます。
前略
 突然で恐縮に存じます。
 実は私、去る2月より四国霊場歩きへんろを体験し、3月26日、貴ホームの前を通りまして、門前の看板を見てお邪魔した者でございます。
 既に一遍路如きにご記憶は無いと存じますが、その折は手厚いお接待とご厚志を頂きまして誠に有難うございました。
 早朝より歩き始めて、昼過ぎ最も疲れの出た時刻でありましたので、一刻でも休ませていただきましたし、貴ホームの皆様のご好意が忘れられなくて、つたない紀行文ではありますが、漸くまとまり製本?となりましたのでお届けいたします。お目透し下されば幸甚です。(この様な機会は初めてですので、緊張しました。誤りがありましたらご容赦の程)
 グループの皆様に宜しくお伝え下さい。そして末永く皆々様のご健康、ご長寿をお祈りいたしますと共に、貴ホームの益々のご繁栄を心から祈念いたします。

 追伸 23ページ中程に簡単ではありますが記載させていただきました。
 冊子は40ページからなり、23ページの「51番 石手寺」の見出しの中にルンビニーに立ち寄られた時のことを書いてくださっています。
 

51番 石手寺
 いつ来ても観光客で混雑するが納経する人は少ない。もうもうと立ち昇る線香の煙をいただいて出発。市内繁華街を抜け、少し田舎へ入った所で「お遍路さんお茶でもどうぞ」と看板が目に入る。
 横文字でどうゆう所か判断がつかなかったが、昼食後でもあるし、一寸お茶でもいただこうかと入ってみる。扉を押すと、30名位の大人が食事の後かテーブルを囲んでいる。一斉に自分を見られ圧倒される。
 どうぞ、どうぞと誘われるまま、靴を脱いで上がる。笠をとり荷物を下ろして、和室のコタツへ招かれる。見渡すと、若い女性3人程が世話役で仕切っているらしい。傍らに仏壇が祀ってある。この仏壇はと聞くと、位牌はありませんが、お年寄りが多いのでという。
 お茶とお菓子をいただき、そのお年寄りのためにと、仏前で一通り読経、3人程が唱和してくれた。皆さんのご健康とご長寿をお祈りしましたと告げ、納め札を置き、間もなく見送られて玄関へ。
 事務員らしい女性から封筒で「お接待です」といただき、合掌してお別れする。その封筒には「グループホーム・ルンビニー」とある。
 今日はよいことをしたなと、さわやか。然し足の疲れはさわやかではない。暑さも手伝って苦行である。14時15分52番へ。

 昨年10月にお接待の看板を掲げてから、13組のお遍路さんが立ち寄ってくださいました。ルンビニーは51番石手寺と52番太山寺の間にあります。この遍路道は途中から古三津回りと安城寺回りとに分かれ、多くのお遍路さんは古三津回りで歩かれるため、安城寺回り沿いに位置するルンビニーの前を通られるお遍路さんは少ないのです。中には、看板に気が付かれなかったり、気が付かれていても先を急がれて立ち寄られなかったりされる方も多い中、お立ち寄りいただく方々はほんとうにご縁のある方々と、ありがたく思います。歩きでの遍路は並大抵のことではなく、私事ですが、娘が昨年八十八ヶ寺を歩いたのですが、道中からのメールには「足のマメがつぶれました。」「膝から下がパンパンに腫れています。」「荷物の重さで肩が痛くて」など、難行苦行の様子が送られてきました。ルンビニーに立ち寄ってくださるお遍路さんも同じようなご苦労をされているのでしょうが、不思議と皆さんとても晴れやかなお顔をなさっておられるのです。「同行二人」お大師様と共に歩かせてただいている「ありがたい」というお気持ちが、身体の不調など苦難を乗り越える大きな力となっているのでしょうか。また私事で恐縮ですが、高知県の足摺岬から以下のような娘のメールが届いたことを思い出します。

「今、足摺岬です。今朝宿屋のお母さんが持たせてくれたおにぎりを食べています。おにぎりがこんなに美味しいなんて・・・涙が止まりません。」

 四国遍路とお接待、弘法大師様が四国に蒔いてくださった信仰と人情の種を、お接待させていただく立場として、大事に育てていきたいと思います。最後に、送っていただいた冊子のあとがきの一部を紹介させていただきます。
  あとがき

 念願の「お四国霊場歩きへんろ」走行距離1,135キロ。歩行日数32日。4回に分けての「区切り打ち」ではあったが、両親の写真を胸に、無事満願達成出来た。思えば雪の日もあった。雨の日も、強風の日もあった。終始最後まで、足のマメには悩まされた。それらの苦痛、苦難、苦業こそが大師の道修行と言うのかもしれない。毎夜連絡をとる妻に足の痛みで「明日は帰るから・・帰るかも知れない」と何度電話したことか。だが、一夜明けると又歩き始める。道中妻から”帰らなくていいのか”と心配の電話が入る。「今日も行けるところまで行ってみる」と返事。

・・・(中略)・・・

 一人の力ではない。多くの人達の理解と協力、支援、励ましがあったからこそ成し遂げられた歩きへんろである。又、巡礼中に戴いた見も知らぬ数多くの方々のお接待。金銭、物品は勿論だが、親切とお世話戴いたその気持ちに心から感謝申し上げたい。そしてゆくゆくは機会ある毎に必ずお返しはしていく。

平成15年6月吉日   合掌

【第5回】
「介護員として、家族として・・・」
介護スタッフ 阿部 るつ子

 一人暮らしをしていた祖母の様子がおかしいと叔父から連絡があったのが3年前・・・。体調不良の原因を解明するため入院の手続きを取り、祖母の元へ通う日々が始まりました。幼いころから両親が共働きでおばあちゃんっ子でもあり、介護員のキャリアもあるため、後見人である叔父より祖母の相談相手という役を任されることになりました。
 諸事情により同居による家族介護が不可能であったことから、祖母とも話し合いグループホームの入居を決意し、現在、祖母の家の近くにあるグループホームに入居して2年が経ちました。

 この2年は私にとってとても密度の濃い時間でした。尊敬していた祖母が痴呆だと判定され、俄かには受け入れがたかったときの苦悩や痴呆に対して不理解な他の家族の反応。福祉業界で云われている程整ってはいない地元の地域福祉。様々な現実を目の当たりにし、家族の一員として私の成すべきことや家族のあるべき姿を考えさせられました。
 そしてこの体験は、介護員としても大きな転機となりました。当時、あるグループホームの介護主任として残業や休日出勤も当然のようにこなし、それでも達成感のある結果は得られず、ストレスが溜まるだけの日々を送っていました。介護員としての限界を感じていた私にとって「介護員とは」と改めて問い直す良い機会となりました。
 そして、当時の勤務状況では祖母のための時間を作るのは無理と判断し、当時の職場を退職し、ルンビニーに非常勤としてお世話になることにしました。他のグループホームに祖母を預け「家族の立場」となった私は、「介護員」としての意識も変わり始めました。
 限られた選択肢の中から介護の善し悪しの判断を迫られた時、すぐに「ご家族ならどう思うだろう」と考えるようになりました。
 また、グループホームのコンセプトである「家庭的」という言葉を重視するようになりました。入居者と「家族のような」信頼関係を築くことは容易ではなく、その第一歩として何かしら(よく見かけるご近所さんでも)親しみのある関係が築けられたらと願っています。

 祖母の痴呆判定以後、さまざまな機関・施設をめぐり行政・地域・家族それぞれに役割があることを学びました。グループホームに限っては、先の職場で、介護のプロとして・・・そんな意気込みだけでは解決できない現実を目の当たりにし、祖母の介護問題に直面してからは、祖母を敬愛する家族としてもしてあげられることに限りがある現実を目の当たりにすることになりました。そんな中、グループホームの介護員は家族の代わりに介護をする人ではなく、家族と共に介護をするのが仕事なのだと感じるようになりました。

 両方の立場になったことでジレンマを感じることもありますが、仕事と祖母の相談相手の役割を両立させながら感じることを活かし、ご家族の方々とのコミュニケーションも大事にしていける介護員でありたいと思っています。

 
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