認知症と共に歩んだ15年 −Sさんの場合−

医療法人ビハーラ藤原胃腸科
藤原壽則

 「楽になりますよ」と呟きながらSさんの点滴セット、酸素吸入チューブを取り外し、そっと頬に触れてみました。Sさんの認知症と共に生きた10余年が今幕を閉じたのです。そして、その後半の医療、介護に関わらせてもらった私たちはSさんから多くのことを学ばせていただきました。

 Sさんが最初に私たちのデイケアにいらっしゃったのは確か平成11年の春だったかと思います。和服姿のSさんは、高校の国語教師をしていて、芥川龍之介、ロシア文学を愛読する読書家と聞きました。
 15年前、伴侶の死に大きな衝撃を受け、しばらくは抑うつ状態の日々を送られました。やがてご主人との死別のショックから立ち直りましたが、その頃から直前のことを忘れ、同じことを何回も尋ね、財布や鍵の置き忘れなどが目立つようになり、金銭管理が困難となり、会合の企画などもできなくなってきました。

 この頃、一度かかりつけ医を受診しましたが、年相応の物忘れで加齢によるものとの診断でした。ある統計では、このような認知症による物忘れで受診した場合、医師の対応として、70パーセントの医師は肯定的、積極的な対応をしますが、30パーセントの医師は否定的な対応をするといわれます。歳のせいで片づけてしまうというのが代表的な否定的対応だろうと思います。この段階でかかりつけ医の対応によって、その人のそれからの経過が左右されることを考えると、私たちはかかりつけ医の役割を改めて考え、重く受け止めなければならないと思うのです。

 この頃からSさんは、末娘の嫁いだ京都の家に身を寄せ、孫の相手をしながら過ごすようになったそうです。しかし、記憶障害は段々著しくなり、散歩に出かけて帰り道が分からなくなって、あるときはごみ焼却場に迷い込むなど、何度もパトカーで家まで送り届けてもらったとのことです。徘徊が始まり、段々とその頻度も増していきました。
 記憶障害はさらに著しくなり、日時に関する見当識障害のため、スケジュールは大きな文字で書いて部屋に貼るようにしました。

 平成11年4月、Sさんは松山に嫁いだ長女の家に移り住むようになり、友人の紹介で私たちの医院に併設していた老人デイケアに通所していただくようになりました。しばしば長女が同伴して通所していました。認知障害はかなり高度の状態でしたが、折々に喜怒哀楽を表現し、高いプライドを持った方でした。

 ある日、こんなことがありました。私がデイケアの部屋に入って行くと、職員たちみんなが私に挨拶しますが、自分にみんなの挨拶がないことを不審に思ったSさんが娘さんにこのことを尋ねたそうです。そしてSさんのこの疑問、不満は娘さんの「あの方は校長先生ですよ」の一言で解消したそうです。

 デイケアでのSさんは、絵画、習字などに熱心に取り組み、カラオケ大会では「上を向いて歩こう」を披露する熱心で真面目な通所者でした。

 平成14年2月、当法人のグループホーム・ルンビニーの開設と同時に入居していただきました。入居後、認知障害は段々と著しくなり、人に対する見当識も失われ、寡動となり、自発性は低下し、殆ど話さなくなってきました。歩行も次第に困難になって遂に寝たきり状態となりました。段々と全身衰弱がひどくなり、しばしば誤嚥性肺炎、尿路感染症を起こしましたが、Sさんの強い生命力で乗り越えました。

 しかし、昨年秋ごろから食事の経口摂取が困難となり、全身衰弱は更に進み、点滴で水分、熱量の補給、酸素吸入を続けました。この間、長女は連日ホームでSさんのベッド脇で母に話しかけながらお世話を続け、京都、福井に住む娘さんたちも母の容態を気遣って度々ホームを訪れてきました。

 平成18年12月29日、午後6時13分、Sさんは3人の娘さんたちに見守られながら、静かに旅立ちました。和服を粋に着こなし、清潔好きだったSさんに、娘さんたちとホームのスタッフの介助で最後の入浴をしていただき、お化粧をしました。
 微笑んでいるような、仏様のような美しいお顔でした。

心清浄なる時は 即ち仏を見、
若し心不浄なるときは 即ち仏を見ず。
−弁顕密二教論巻下(定三・一○八)−

合掌

 

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