母と共に

小林 洋子

 平成18年の大晦日、年末にしては暖かで、よく晴れた穏やかな日、母は本当に風になってしまいました。

 松山に長年住む私の許へ母を連れて来たのが、平成11年春。姉妹3人の中で各々事情があり、止むを得なかったとは言え、母の住み慣れた所から一番遠い私の許へ連れて来てしまい、淋しい思いをさせただろうと、申し訳ない気持ちでした。

 葬儀が終わり、ほっとしたその夜の紅白歌合戦で、朗々と「千の風になって」が歌われていました。歌詞のように本当に風になって懐かしい所に吹いて帰って欲しいと思えました。

 京都府で暮らしていた母は、父の死後、徐々に物忘れがひどくなり、様々な過程を経て、ついには独りで暮らすことが困難となり、最終的に私の所へ同居することになりました。子供達が巣立った後の夫婦だけの暮らしとは言え、狭い団地での同居はなかなかつらいものがありました。それでも夫は何も言わず受け入れ、よく協力してくれました。私も認知症の母を介護すると決め、妹達の協力を得られない状況であるからには、独りで頑張らず、利用できるものは何でも取り入れ、友人・知人・ご近所の方々や皆様の協力を得て、少しでも気楽なように、笑顔を忘れないようにやっていこうと思っていました。

 まず最初に、やはりお母様を長く介護している友人に相談し、藤原医院の老人デイケアを紹介してもらいました。これを手掛かりに介護の道が開け、最後まで先生のお世話になり、母を見守ることが出来ました。この友人には今でも心から感謝しています。デイサービスとショートステイを使いながら、3年間同居しました。

 最初デイに出かけるのを疑問に思う母に「学校からバスでお迎えに来られましたよ」と告げると、口紅をつけ、身なりを整えて、いそいそと出かけるようになりました。その後は、デイに行くのを一度も嫌がることなく、とてもよくしていただき、居心地が良いらしく、毎日のように通わせてもらいました。私も折々にある行事には積極的に参加させていただき、幼稚園児の保護者のような気分で楽しみました。

 デイからの帰宅後は、毎日母と一緒に散歩をし、犬の散歩をされている方達と顔見知りになったりもしました。家族が揃って食事をし、一緒に風呂に入り、寝させるまで、片時も目を離すことはありませんでした。穏やかな時も、不穏な時も、どう工夫すれば母を安心させ穏やかに過ごせるのか、また家族も心安ませられるかと考えましたが、次第に症状が進み、エレベーターもない団地暮らしには限界が来ると不安を感じていました。丁度その頃に、先生のグループホーム建設の話を聞き、見学にも行き、相談したところ、入れていただけることになりました。

 他ならぬ先生の所のグループホームなので安心はしていたものの、手塩に掛けて育てていた娘を下宿先に送り出すような、そんな気持ちがありました。そう言えば、母も私のことを「お姉ちゃん」と呼んでいました。長女なので、そう言われていると思っていましたが、どうもニュアンスが違うので、母に尋ねてみたところ、「いいえ、私のお姉ちゃんでしょ!お姉ちゃんが妹の世話をするのは当たり前。」と言います。母には姉達が沢山いたので、世話を焼くのは姉だろうと自分なりに納得していたようでした。いつの間にか、私に大きな妹ができていてビックリしたことでした。

 グループホームルンビニーに母が引っ越してからも、「独りにはしない」と約束した通り、毎日訪問し、一緒に散歩をし、歌を歌い、お出かけ等の行事にもご一緒させてもらいました。私も、毎日訪問しているからには、スタッフの邪魔にならないよう、他の入居者の方々には違和感を持たれないようにと気は遣っていたつもりでしたが、スタッフの皆さんには何かとやりにくく、迷惑なことも多かったと思います。それでも、快く受け入れて下さり、仕舞いには本当の仲間のように親しんでいただき、母の介護を一緒に続けさせてくれたことに大きく感謝していました。

 入居以後も、母の認知症の症状は次第に進み、かつて懸念していたように、食事もできなくなり、歩行も困難になりました。それでもスタッフの皆さんが、その時々に応じた介護の方法を考え、工夫を凝らして世話をして下さっているのを、毎日見ては肌で感じ、やはりここにお世話になる決心をしてよかったと思いました。

 母は入居後5年になる昨年の秋祭りの頃から体調を崩し始め、何度もの危機を繰り返しながら、年の瀬も押し迫った29日夕、先生をはじめ、スタッフの皆さん、京都、福井から駆けつけた妹達に見守られながら、静かに消え入るように旅立ちました。笑顔のすばらしい、最後まで立派に生き抜いた母であったと思います。

 母は母なりの天寿を全うして千の風になりましたが、介護を通して沢山のすばらしい人々に出会わせてくれ、身をもって、「生き通す」ということの何であるかを教えてくれたのだと思います。

 幼い頃より姉として扱われた私は、母を独り占めにした記憶がありませんでした。母の最後の8年間をやっと独り占めすることができて幸せだったと思います。
 最後を迎えようとする母に付き添っているときには、母の世話ばかりでなく、私の心配までも先生やスタッフの皆さんにはしていただきました。食事のとれないときに作ってくれた特製の卵焼きの味、何度も夜中に駆けつけて来てくれたこと、最後に母に持たせていただいた先生の数珠のことなど、今でも忘れることは出来ません。

 最後までお世話になった藤原先生や相原施設長、スタッフの皆さん(かつてスタッフであった方々も)に、心より感謝しています。今日も風が吹いています。母も穏やかに吹き渡って、私たちのことを笑顔で見守ってくれていると信じます。

 

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