お母さん ありがとう そして さようなら(再会)!

中橋ミサ 長男 中橋 恒 

 2009年5月15日、中橋ミサは91年の生涯に幕を下ろし静かに旅立ちました。グループホームアショカのスタッフの皆さんの温かい見守りの中で安らかに眠りにつき、大往生にふさわしい立派な最期を迎えることができました。もう二度と会う事の出来ない別れの辛さがある一方で、穏やかな最期を見届けることができたという安堵の気持ちでいっぱいです。

 母は、大正8年に長崎県の佐世保市に生まれました。成人するまでの時期は何不自由なくすくすくとお嬢様として育ち、敗戦色濃い混乱の時期に父と見合いで結婚し(この結婚は母にとってはあまり乗り気のしないものだったようです)、長崎市に住むことになったのです。その住まいは、なんと爆心地の直下に位置しておりました。1945年8月9日、この日は長崎市にとって悲劇の日です。父と母にとっても悲劇の日になるはずだったのですが、偶然という奇跡が生きることを両親へ与えてくれました。その奇跡とは、父は出張で長崎を離れ、母はお使いで自宅を離れ、両親ともに爆発のその時にそこに居合わせることなく、被爆から難を逃れ命が救われたのです。戦争が終わり、父と母は着のみ着のままの生活の中で生きることに一生懸命がんばり、姉二人と私の二女一男を儲け、教育と生きる力を授けてくれました。父は、明治生まれの仕事人間で、子育てや教育などにはあまり関心を示す方ではなく、もっぱら母親任せの人でした。母の教育熱心な思いに後押しされながら子供たちはそれぞれに元気に育ち、それぞれの個性を生かす形で成人し長崎を離れ巣立ってゆきました。

 子供たちが巣立った後は、父と母との二人暮しになりましたが、母は子供たちに、父は仕事にと、気持ちの面ですれ違いの生活でした。夫婦としての思いなど、向き合って理解し合いたいとお互い努力はあったようですが、噛み合うことなく1999年に父は心筋梗塞であっけなく永遠の旅路についてしまいました。父への思いは母の胸の中に閉じ込められたままのお別れでした。それから5年間、母は一人だけの生活を送ることになるのですが、負けず嫌いのがんばり屋で人に頼ることを許さない性格でしたので、子供たちの助言などには耳も貸さず相当無理をしていたようです。年を重ねるに従って認知症が徐々に進み、一人での生活が困難となり2004年4月松山へやってまいりました。

 母の生き様を振り返ってみますと、原爆の体験や戦後の混乱の中で3人の子供を育て無事世間に送り出したことは並々ならぬ情熱と生きる力が必要で、賢母として尊敬に値する人だったと思っています。しかしその一方で、戦争という悲惨な出来事の中で自己喪失の体験や、戦後の復興の中で生きることに一生懸命の日々から自己犠牲の中で生きてきた人でもあったと思うのです。そうした生き方の中で、子供たちが家を離れ、月日が流れるとともに、夫に、私たち子供たちに、親戚に、そして自分の母親に対して、満たされない思いから怒りをぶつけるようになりました。母が長崎で生活をしていた頃は、子供たち3人はとにかく母とよく意見のぶつけ合いをしていたものです。

 こんな母でしたので、うまくやっていける自信など全くなく、不安だらけの松山での生活が始まり、そして、半年後の10月にグループホームアショカの住人としての生活がスタートすることになりました。入所当時は慣れない環境から私が訪問するたびに家へ帰ると裸足で外へ飛び出したりして、身を切られる思いでアショカを後にしたこともたびたびでした。時間の経過とともに環境にも慣れ、少しずつ腰をすえた生活ができるようになり、アショカのスタッフの皆さんの家族以上の愛情にあふれる支えの中で4年6ヶ月というかけがえのない時間をいただくことになったのです。

 アショカでの4年半は、私にとってかけがえのないとても大切な時間になりました。母の生い立ちや生き方など書かせていただきましたが、母からの怒りはある意味私自身のアイデンティティの揺らぎにつながる所があり、とても辛い思いを持っておりました。アショカでの生活で、母と具体的に理解し合う話をした訳ではありませんが、母との触れ合いの中で二つの言葉をもらったことで私自身のアイデンティティの回復につなげることができました。ひとつは、父親を”いい男だった”と褒めてくれ、両親の愛の中で命をいただいた存在であったことを確認できたことです。それと言うのも、父の欠点を山ほどあげつらい、”あなたはそうならないようにしなさい!”が母の口癖でした。もうひとつは、父と同じ墓に入ることをかたくなに拒んでいた母が”死んだら隣に置いてくれ”と言ったことです。”死んだ後も、父の妻でいい、あなたの母親でいいんだよ”と伝えてくれた大切な言葉でした。この二つの言葉は、アショカのスタッフの皆さんが作ってくださった4年半という時間の中で、母が自ら手にし親から子へ贈ってくれた”家族の証”と思えるからです。

 もう二度と会う事の出来ない別れの辛さはありますが、母の穏やかな最期を見届けることができたという息子としての安堵感に心満たされた気持ちです。最後に母中橋ミサへ感謝をこめて、『お母さん ありがとう、 そしてさようなら(再会)!』

 藤原先生、アショカのスタッフの皆さん本当にありがとうございました。ただ、ただ感謝です。

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