【第百七十五話】 苦労って修行

法寿院 水崎圭二

自分自身が幸せだと思っている人は、なかなかいない。人それぞれなんらかの不平不満は、必ずあるもんじゃ。そもそも幸せとは、いったい何じゃろう?まあ、百人いれば、百通りの幸せがあるように、いろんな意見があり、答えは一つではないということじゃな。いい服を買った、希望の大学に合格した、好きな人と結婚した、これらは、実にわかりやすい幸せの感覚じゃが、まあ、何日かしたら忘れてしまうような一時的な感情じゃ。その時は、幸せでも長続きしない。幸せとは、心の奥底から感じる自分自身の人生の満足感とでもいうべき安らぎ、充実が幸せと呼ばれるものかもしれぬ。それを仏教でいえば、悟りと云うのじゃろうて。誰しも幸せを望まぬ者はいない。「全て世は事もなし」といったのどかな風光は実にのどかな風光じゃが、世の中にはそうよい事ばかりが転がっているわけじゃなく、どんなに人から羨ましがられ、本人自身も恵まれていると思っても、いつしかその生活の隙間から不幸という名の風がしのび込んでくる。

阿毘達磨具舎論というお経にこんな話しが書かれてある。あるところに一人の独身の男が住んでいた。一生のうち、せめて一度でもいいから幸せになりたいと願っていた。毎日、神に祈り、その甲斐あってか、ある日とうとう吉祥という幸福の女神がやってきた。男は、大喜びで家に招き入れようとすると女神は、「私には実の妹がいて、いつも一緒です。妹も入っていいですか?」その妹の名前は、不幸の女神・黒耳という。男は、幸福の女神だけを家に入れようとするのだか、「私たちはいつもこうして一緒に連れ添わなければいけません。一人だけ置きざりにすることは、できないのです。」男は、どうすればいいのか、迷い迷って途方にくれてしまうというもの。

足るを知るの法は、すなわち是れ富楽安穏の処なり。足るを知る人は地上に臥すといえども、なお安楽たり。」これは、お釈迦様の最後の言葉として知られるお経の一節じゃ。いかなる場合でもむさぼりの心を捨て、いま与えられているものに満足し、感謝できる人には、必ず幸せがもたらされるのだということじゃ。

法句経にこんな話しがある。ある男がテーブルにある自分のご馳走だけで満足ができず、向かい側にある食べ物も欲しくなった。すると不思議なことに自分の持つ箸がだんだん延びて向かい側まで届くようになった。そこでそれを食べようとしたら箸が長すぎて食べられなかったというもの。

幸せは、簡単につかむことはできぬ。「艱難辛苦(かんなんしんく)、汝を玉にす」という言葉がある。昔から云うように「若い時の苦労は買ってでもせよ」という言葉の通り苦労した者ほど成長してから楽しみ増えるというもんじゃ。苦労のない者は不幸かもしれぬ。苦しまずに楽しようとか愉しもうというのが根本から間違っているんじゃな。

自分の不幸を嘆く人は、まだまだ努力が足りないということかもしれぬ。必死になってやり遂げたことに対しては、どんな結果に対しても本当の涙があふれてくるということじゃな。