【第百九十四話】 秋深し・・・

法寿院 水崎圭二

紅葉もだいぶ進んできたのう・・・先日の11月12・13日、奈良の本山長谷寺と京都の大覚寺に行ってきた。あと一週間後くらいが見頃だということじゃった。それでもなんとなく冬の訪れを感じさせる、せつなさ、もの悲しさが落ち葉のはらはらと日暮れの風の冷たさともに、胸に迫ってきた。若い頃に読んだフランスの詩人ポール・ヴェルレーヌ「落葉」という詩が忘れられない。

秋の日の ヴィオロンの ためいきの 身にしみて ひたぶるに うら悲し

鐘のおとに 胸ふたぎ 色かへて 涙ぐむ 過ぎし日の おもひでや

げにわれは うらぶれて ここかしこ さだめなく とび散らふ 落ち葉かな

この詩は、上田敏という人の訳詩じゃが、何人もの人が訳詩をしており、他の人の訳詩も読んだが、まったく違った印象を覚えたもんじゃ。ヴィオロンというのは、バイオリンのことじゃが、このためいきというのが、いまでも忘れられない理由のひとつじゃ。名前を忘れてしまったが、違う方の訳詩では、ヴィオロンの節ながき啜泣(すすりなき)とあった。どちらも感動ものの表現じゃのう。

秋が深まってくると思い出す言葉として、「秋の日はつるべ落とし」というのがある。

朝顔に 釣瓶(つるべ)とられて もらい水 (加賀の千代女)これは、つるが釣瓶に巻き付いて朝顔の花をつけているのを折ってしまうのは忍びないという心を詠んだものじゃ。つるべとは、井戸で水を汲み上げるときに用いる縄を付けた桶のこと。じゃから、つるべを井戸の中に落とす際に、急速に落ちる様を秋の日が暮れやすいことのたとえで、秋の日はつるべ落としと言ったんじゃな。実に日本語はすばらしい!ええ表現じゃのう。

日本語の表現の究極は、17文字で表す俳句じゃな。秋の俳句をここですこし。

秋深し 隣は何を する人ぞ      松尾芭蕉

なぜ秋なんじゃろう・・・いつだって、隣の人が何をするかは気になるもんじゃ。

白露や 茨の刺に ひとつづつ     与謝蕪村

庭には一面の朝露が降りて、茨の刺の先にひとつひとつ露が付いている。

名月を とってくれろと 泣く子かな  小林一茶

あのお月様がほしいよ、ねぇとってよと子どもがぐずる。今の子どもはどうかのう。

柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺    正岡子規

有名過ぎる句ではあるが、今のご時世、柿食べることも減ってるし、鐘鳴る寺も激減。

秋の暮れ 道にしやがんで 子がひとり 高浜虚子

もの悲しい風景じゃが、今は、子どもを一人にすることなんてないことじゃ。

いやいや、けちばかりつけては、いかんのう!とにかく、昔と現在は、変わったとはいえ、大切な言葉が死語なってしまうようなことは、あってはならんことじゃのう・・・